日本の造船企業を知ろう!

約1,000事業者ある国内の造船業。ここでは、そのうち工業会加盟の17社を軽く紹介します!

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賠償の廃止と造船ブーム

戦後日本の造船産業の研究報告

前回までは暗い内容だったけど……

降伏受入れから約4年。

これからどんどん成長するわよ!

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戦災と造船所

80.6%

この数字、何を意味していると思いますか?答えは、戦争時の船舶被害率です。そうです、日本海運業は第2次大戦において実質滅んでいたのです。

しかし、海運業が壊滅した事と比べ、逆に造船業はほぼ無傷でした。これは、戦況の悪化による資材不足でそもそも生産停止していたためや、連合軍が制空海権を取得しており攻撃する価値を見出さなかったためです。そして、戦時中の設備拡張や造船所の新設により、造船能力は戦前よりも増大しました。

「年間1万総トン以上の建造能力を持つ42造船工場のうち、全滅に近い被害を受けたのは中規模の4造船所にすぎず、比較的大きな被害を受けた5つの造船所(川崎神戸、三菱神戸、日立桜島、藤永田造船、名古屋造船)の場合も被害は主として造船施設以外の産業設備に集中していた」(中川敬一郎,1992)。

 

このように、海軍並びに海運が全滅した一方で、ほとんど無傷の造船所が残った結果、新たな問題が生じます。その問題、つまりは船舶救済と造船救済を達成すべく行われたのが1947年度から始まる計画造船でした。

計画造船

少し時間は遡りますが、皆さん傾斜生産方式はご存知ですよよね。これにより海運需要は増加したのですが、当時は賠償案が定まらず、まだ鋼船の建造が一切認められていない状況でした。

※終戦から約1か月後の9月1日、造船産業は船舶建造には全ての鋼船と100総トンを超える木船のすべてが許可なしに建造することが禁止されることとなった。しかし、15日には損傷船の修理と続行船の建造がGHQより求められこととなる(寺谷)。

そして、1947年には内航船需要に対して輸送力がどうしようもなくなるほど切迫することが決定的になりました。運輸省は内航用の貨物船建造許可をGHQに求め、その結果計画造船が開始されました。

この計画造船は1947年度から始まり、最終的に1987年度まで続きました。47年度と48年度は2回計画され、その後は各1度ごと計画されました。

輸出船の開始

GHQと日本の双方が共通する悩みを持っていました。外貨不足です。実際、1946年から47年までの輸入額は、輸出額の2倍に達していました。そこでほとんど無傷の造船業が輸出産業として期待されたのです。

まず、47年9月にソ連と木造船輸出が成約、約1年後の48年6月に三井造船と播磨造船がノルウェー抜けの捕鯨船(490総トン)2隻を受注します。

賠償から解放された後、49年2月には川崎重工が受注した戦後初の大型船輸出となるノルウェー向け油送船(1万3500総トン)1隻を始め、大型の輸出船受注総計は13隻9万6200総トンとなりました。この時の船主のほとんどは日本と戦火を交えていない北欧系でした。

そして1950年、朝鮮戦争により世界的な海運需要が拡大。日本造船業は輸出産業の花形となったのです。

造船ブーム

日本の造船産業において、造船ブームと呼ばれるものは4度ありました。この造船ブームこそが日本を造船王国にのし上げた直接的な原因になります。そして、1956年に日本は世界最大の造船国家となったのです。

第1次造船ブーム

第1次輸出船ブームの始まりは、日本造船業の輸出船開始からわずか6年しか経過していない1954年から57年の事です。このブームを可能とした要因は次の通りです。

海外的なものとしては、

①朝鮮戦争の休戦に伴う米ソ間の緊張緩和

②石炭から石油へのエネルギー革命による石油需要の激増

③第2次中東戦争によるスエズ運河の封鎖、の3つがあります。

 

国内的なものとしては、

①前途の通り造船設備に対する大幅な設備投資に伴う近代化と合理化

②粗糖リンク制度と日本輸出入銀行による融資などの政策

③欧州造船業が受注待ちである一方、日本造船業は即座に建造に入れた、の3つがあります。

※間違えてはならないのが、このブームの波に乗ることが可能であった要因は海外事情だけではないという事です。休戦や石油エネルギーへの変更などは要因として大きな比重を占めますが、一方、建造方法の合理化(溶接建造や生産設備の更新など)は日本企業自身が行ったことであり、このことが無ければ波に乗ることは困難であった。

ギリシャ船主と船舶の専用船化・大型化、そしてスエズブーム

上記の事象は確かに造船ブームを引き起こした大きな要因でした。しかし、それ以外に日本の造船業を急成長させる要因がありました。

ギリシャ船主

第1次ブーム最大の要因はギリシア系船主の存在と、船舶の専用船化・大型化の風潮です。

この図は、受注した輸出船の船主別統計です。ギリシャ系船種による爆買いが良くわかると思います(この後の英米系石油メーカーについては次回記事で紹介します)。

すなわち、この莫大な受注を得らえたのは、海運状況化活発化する中で安い船価・長期低利融資・短納期と言う日本造船業の特徴をつかんだギリシア船主が、集中豪雨の様に日本へ押しかけたことが1つの要因であったのです。

専用船化・大型化

第2次大戦前の海運にも定期・不定期船の分類は成されていましたが、これに新たに石油輸送を専門にするタンカー勢力が台頭することとなります。

石油は他の貨物と違い液状であるため必然的に専門船化、所謂タンカー構造となるしかなかったのである。

そして、タンカー以外にも専用船化の動きが生じたのです。

それは、第2次大戦前の荷動きにばらつきが多く多目的輸送に適した船舶を供給しなければならなかった事情が、戦後の工業国においては原材料が不足し海外からの輸入に頼るしかなく、貿易量が著しく上昇することとなったためです。

 

また、大型化については、平均値ではなく最大値で見るならば、タンカーは1950年には2万8330重量トン級が建造され、53年には4万5000重量トンと、そもそも大型化は進んでおりました。

これに加えて、第2次中東戦争によってスエズ運河が封鎖されたため、スエズブームが生じたのです。スエズブームは従来の様にスエズ運河を渡航することが不可能となったため、喜望峰を廻ることを前提に設計された船舶の一斉受注の事です。

採算性を確保するにはより大型化した船舶が必要とされ、その結果タンカーは大型化していきました。そしてそれら船舶の主役はNBC呉を始め日本の大手造船業でした。

第1次ブーム後の造船業界における多角化と再編

ブームと呼ばれるだけあり、1957年を過ぎると輸出船は急減することとなりました。59年には33万総トンにまで落ち、このことは第1次ブーム以前の状態にまで戻されたと言えました。

このため、便宜上ではあるが1960年には総合重工業グループ(多角化が進み、造船部門は一部門としての比重しかない企業:新三菱重工、三菱日本重工、石川島重工)、大型タンカー建造グループ(新造船の割合が多く、船台及びドックなどの大型化を中心とした設備投資を行った企業:三菱造船、三井造船、川崎重工、日立造船、播磨造船、浦賀船渠)、貨物船グループ(造船部門の比重は高い一方、大型船建造能力が無い企業:藤永田造船、函館ドック、名村造船、名古屋造船)の3グループに区別されることとなった(金子、514-55項)。

一方で業界再編の動きもあり、石川島重工と播磨造船の合併は1960年12月に石川島播磨重工業と新会社が設立されるに至った。これは売り上げの約90%を造船部門が占めている播磨造船側の問題と、創業以来陸上部門の比重が高く経営が安定しているものの大型船台がなく今後のタンカー大型化についていけないと言う石川島側の問題を解消するためであり、相互が対等に利益を得る形となっていた(寺谷、210項)。

これに刺激を受けてか造船各社では合弁や系列化が相次こととなり、その最たるものは1964年の三菱重工業の復活であった。即ち、ここに世界最大の造船企業が誕生することとなったとのである(同上、214項)。

おわりに

日本が世界最大の建造量になったのは1956年のことで、それは第1次造船ブームによるものなんだね!

良くできました!

朝鮮戦争で海運業が活性化し、それが船不足を引き起こし、船を買いたい海運業者がたくさん現れたの。

そして、その時に欧州造船業は受注がいっぱいで、ギリシャ船主がすぐに建造に入れる日本企業に大量に発注したんだね。

今回は計画造船と外貨不足、朝鮮戦争や中東戦争に伴う海運活性化に関する話でした。

次回は第2次から第4時までの造船ブームと、オイルショックについて書いていきたいと思います。

 

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