戦後日本造船産業の研究報告:第2回「冷戦と賠償緩和、そして解放へ」

戦後日本の造船産業の研究報告

そもそも賠償ってそんなに変わるものなの?

常識は常に変わるものよ。

波も世界情勢も、ね。

世界情勢は着々と変化する

戦後の世界情勢は非常に複雑なものでした。皆さんもご存じの通り、資本主義陣営と共産主義陣営による冷戦です。

欧州ではドイツが分断され、アジアでは朝鮮半島が分割統治、中国大陸では再び国民党と共産党が再戦し、ベトナムやインドでも共産化の動きが出るなど、まさに複雑化しておりました。

結局どうなるのかというと、皆さんご存知の通り中国は共産党が勝利し共産化。ベトナムも同じく共産化し、インドは第3勢力に。そして朝鮮半島は今もなお38度線に国境線が引かれる状態です。

さて、ではその冷戦と日本の賠償案。一体どのように関連していたのかを説明したいと思います。

賠償案の推移

まず、日本が賠償問題から解放されるまでの賠償案と、その賠償の目的を見てみましょう。

見ての通り、時代とともに徐々に賠償が緩和されている事が解ります。

ちなみに、GTとは船舶の総トン数のことで、knotとは船舶の速度のことです。

※「総トン数は、船の外板の内側から外板の内側まで全ての容積をあらわします。つまり船の中がどのくらい広いかをあらわしていて、商船や漁船などでもっとも広くつかわれています」日本海事広報協会より。

※knotは1時間に1海里(1.852km)進む速さで、だいたい時速2キロくらいです。

ストライク調査団とSWNCC236/43案

1947年3月12日、米国大統領トルーマンは連邦議会において自身の言葉で冷戦の宣戦布告を行うこととなります。これが世にいうトルーマンドクトリン、つまりはアメリカによる反共産主義政策の始まりです。

そして、これこそが日本の占領方針を大きく変更させました

すなわち、速やかに経済復興を果たし西側諸国の一員として共産主義と対峙することへと変化したのです。ここに日本の農業国化を目的としたポーレー賠償案の崩壊、そして賠償緩和への道が示されることとなりました。

第1次ストライク報告

総括報告の次に賠償案を担当したのはストライク調査団です。まず1947年2月に第1次ストライク報告を提出します。

対日賠償計画が未確定な為に日本の経済復興を阻害しているという事を指摘し(寺谷、77項)、これを基に2か月後の4月、米政府はマッカーサー元帥に対して対日中間賠償の3割即時取立(※つまり、ポーレー中間賠償案に記載された賠償撤去総数の30%)を許可した(平川、2006;443項)。

この時に撤去対象となったのは陸海軍工廠の工作機器などであったため、賠償指定がなされてはいたものの非工廠施設であった各造船所は撤去を免れた。なお、賠償の未確定は米ソ間における主張の対立、即ち満州などの産業施設は戦利品であり賠償撤去の枠外にせよと言うソ連側の主張と、それを認めない米側との問題が解決せず国別の賠償配分比率が決定できなかったことが大きい(三和、110項)。

※この3割即時取立により撤去された機器の受取先は、中国:15%、フィリピン、オランダ、イギリス:各5%ずつ。

第2次ストライク報告

このストライク第1次報告の後、ポーレー総括報告と調整し策定された賠償案(SWNCC236/43)をアメリカは極東委員会に送付します。

しかし、陸軍省はより一層の賠償緩和を望みました。この再度の依頼により報告されたのが、第2次ストライク報告です。

第2次ストライク報告は2つの部に分かれており、第1部はSWNCC236/43(SWNCC:State-War-Navy Coordinating Committee;国務・陸軍・海軍3省調整委員会。)を実行した場合の価値評価、第2部は調査団が独自に作成した賠償案であった。一方、調査団が作成した第2部報告はこれまでの賠償案とは極めて性質が異なったものであり、大幅な緩和が求められていた。

このように、第2次ストライク賠償案はこれまでと比較してかなり賠償が緩和されております。その内容を深く見ると次のようになります。

海運・造船については、

①1930-34年の商船隊は人口16人に対して約1総トンであったが、当時は60人あたりに約1総トンの規模でしかなく、その商船隊も戦時標準船または船齢が25年を超えるものが多くを占めていた。

②人口22人あたり1総トンが必要と仮定した場合、1953年の人口推定から最小限400万総トンの商船隊が必要であり、現有商船130万総トンを残したとしても今後6年間で約350万総トンの増加が必要である。

③外貨事情から船舶輸入は困難であるため国内建造に頼るしかなく、しかしながら鉄鋼などの造船資材の供給量には限界があるため、53年の商船隊は約187万総トン程度にしかならないと推測でき、このため船舶並びに造船能力を賠償対象とすべきではない。

との見解の下、商船の保有制限を最低限400万総トンとし、必要であれば6000総トン以上の船舶を速力15ノット以下に制限することも可能であると指摘した。また、新造船設備を年間41万6100総トン残し38万5000総トンを撤去可能、修繕能力を400万総トンの修繕を行うために609万5000総トン残し112万2450総トンを撤去可能とした(三和、114-5項)。

このように、海運にとっては保有船は6000総トン制限が撤廃されただけではなく、保有可能総トンが大幅に増加し、非常に良い結果をもたらしました。

一方で、第2次報告における全ての撤去額の内、一般民間工場からの撤去分の約68.6%を造船業が負担する結果となり、造船業に対してはなお困難な賠償案でした。

というのも、船舶不足が深刻極まりない海運と異なり、造船施設はそもそも戦争による被害がそれほど大きくは無く、必要船舶数の推定を考えてもなお造船設備が余るとされたためです。

賠償からの解放

ストライク報告書の提出から約2か月という短い期間で、ジョンストン報告書が提出されます。

この報告書では、第2次ストライク報告よりもさらに賠償が緩和されてました。なんと、軍需施設の工作機器残置量を増やすことでさえ報告されていたのです。

造船・海運に関しては造船設備16万2000総トンを賠償対象とし、残置量63万9000総トンとなった。なお、造船設備の撤去量が減少したと言っても、一般民間工場からの賠償負担額の約48.8%は造船業が負担することとなっており、依然として高い比率であった(三和良一(1992))。

造船業における負担はなおも莫大なものでしたが、しかし、この報告書により船舶保有量や船型の制限に関する規制は実質的に無制限になったといえます。

そして1949年の5月、ついに極東委員会アメリカ代表マッコイは賠償撤去の中止と工業生産能力規制の撤廃を声明するに至りました。

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