戦後日本造船産業の研究報告:第1回「大日本帝国の連合国に対する賠償と造船産業」

戦後日本の造船産業の研究報告
https://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/5_museum/36_sasebokaigunkousyou/index.htmlより

日本の造船?

造船って韓国とか中国が主役じゃないの?

残念だけど、中韓と比べると日本は目立ってないわ。

でもね、戦後の日本造船業って世界で1番だったのよ?

日本の造船

突然ですが、皆さんは日本の造船産業がかつて世界1位だったのをご存じですか?

おそらくピンとこないですよね?なんせ、現在の日本造船業はほとんど話題になりませんから…。

ちなみに、戦後日本の造船業がどれくらいすごかったかというと、世界最大の船の大きさは日本が常に塗り替え技術力欲しさに英国が事故を装って船舶に衝突し英国内のドックに入渠させたりダンピングしていないのに値段が低いと欧州諸国から批判されたりなどです。

では、それほどまでに強力だった日本の造船業がなぜ衰退したのかというと、このような要因があります。

①大手企業が主に建造していた大型タンカーの需要がオイルショックによって一気に減少した。

②それにより、大手企業がバラ積み船などの建造に参入し、中小企業と激しい戦いが生じた。

③政府が強力な産業規制を敷く一方で、海外造船業は積極的に投資し成長した。

④政府主導の設備処理により日本の造船企業の設備が全体的に減少された。

これらの要因については別記事で紹介しましょう!

今回は戦後、連合国から発せられた日本国への賠償と造船業との関わりについてを記事にします。

賠償による造船設備の撤去・廃棄

戦争が終了すると、戦勝国は敗戦国に賠償を求めます。

第1次世界大戦でドイツに天文学的な賠償金を求めた結果ナチスが台頭したのは有名な話ですね。日本も日清戦争の戦利品として台湾を得た歴史があります。

さて、連合国が戦後の日本に求めた賠償は非常に厳しものでした。なんせ、白人至高主義時代に黄色人種が戦いを挑んだわけですからね。

さて、この賠償ですが、簡単に言うと次のようになります。

「日本が連合国に二度と歯向かえないように、あらゆる重工業を禁止し、農業国家にする」

これにより航空機産業は禁止され、多くの技術者が新幹線開発へ移籍したのは有名な話です。そして、造船業に対しても船舶建造の制限と造船施設の撤去が賠償に含まれました。

佐世保海軍工廠https://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/5_museum/36_sasebokaigunkousyou/index.htmlより このほか、https://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/5_museum/36_sasebokaigunkousyou/index.htmlなどにも良い写真があります。

佐世保海軍工廠https://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/5_museum/36_sasebokaigunkousyou/index.htmlより

 

「対日賠償政策は国務省を中心とするアメリカ政府内部の戦後政策立案作業の初期、43年前半から検討項目の一つとされ、第一次大戦後のドイツ賠償の経験もふまえながら金銭賠償ではなく現物賠償とし、軍需産業は禁止するが平和産業の維持を許すこと、日本在外資産を没収して賠償の一部とすること、将来は世界貿易への参加も許すこと、といった一般原則が日本降伏の時点で決定されていた」

最初の対日賠償案はポーレー賠償案といいます。1945年12月7日に中間報告を大統領に提出し、わずか3日で了承されます(最終報告は4か月後に提出されました)。その目的は①非軍事化の徹底、②民主化政策、③日本経済力の減退、④日本の犠牲による東アジアの経済復興、でした。

現物賠償があまりピンとこない方も多いと思います。指定されたのは次のような物たちです。

中間賠償撤去対象として工作機器製造能力の半分、陸海軍工廠・航空機工場・ベアリング工場・航空機エンジン工場の全部の機械設備、29の代表的造船所のうち20造船所の設備、年産250万トンを超える鋼鉄生産能力、年産50万トンを超える銑鉄生産能力、マグネシウム・アルミニウム製造工場の全部、火力発電所の半分、接触法硫酸工場の全部、最新式のソルベー法ソーダ灰4大工場のうちの1工場、最新式の苛性ソーダ41工場のうちの20工場が指定された。その後の総括報告では重電機、石油、水力発電が撤去対象に加えられ、製鉄、工作機器、造船所などの撤去量も増大した

この賠償案で造船業界はどうなるの?

造船産業と海運産業が強く結び付いています。

日本の船舶保有量は1913年に世界6位、1919年に英米に次ぐ3位にまで成長しておりました。しかし、真珠湾攻撃開始前には総トン数約609万トンにまで拡大したものが、戦後は同約150万トンにまで減少し、更に航行可能な船は同約90万トンしかなかったのです。※ちなみに、150万トンは大正初期の、90万トンは日露戦争時の水準です。戦時中の船腹損失量は驚きの同約844万トンで、日本の海運は事実上壊滅しました。

このため、もし海運を再起させる考えと、それを日本の造船企業に建造させる考えがGHQにあれば、造船産業は大いに盛り上がる事だったでしょう。実際は正反対でした。

造船・海運業に関連する数値を示すと、5,000総トン12ノット以下の鋼船を最大150万総トンまでしか許可しない、今現在保有している5,000GT以上の船舶はすべて賠償に充てるという事であり、この後に残存する船舶は619隻66万総トン(内、戦時標準船58%)、さらにその数値から就航不能船を取り除くと309隻38万総トンでしかない。当時の日本に必要とされる輸送量が128万トンであるが、これらを合わせた輸送力は46万トンでしかなく、国内輸送に大きな打撃を与えると推測された。

15万トンの鋼船建造以上の造船施設、即ち30~40の造船所と大型浮きドック3基の賠償撤去が行われた後には、大の造船所10と小造船所12、木造船所548が残るのみであり、修理要望量約400万総トンの70%を満たすしかできないのであった。

つまり、船も持たせず、設備も持たせないという事です。まさに島国日本に対する死刑宣告に他ならないものでした。

突然の賠償緩和

しかし、このポーレー賠償案、最終的に実現されることはありませんでした。

それについては次の記事にて解説しましょう。

 

各種出所

三浦陽一(1987){「1945年の精神」とその崩壊 : ポーレー賠償案の形成と破産 1945-47}岐阜大学教養部研究報告 vol.[23] p.[1]-[20]』.

三和良一(1992)『戦後日本海運造船経営史①占領期の日本海運』日本経済評論社.

寺谷武明(1993)『戦後日本海運造船経営史⑤造船業の復興と発展』日本経済評論社.

金子栄一(1964)『現代日本産業発達史Ⅸ 造船』 交詢社出版局.

大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで―』.

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