四面を海に囲まれ、古くから造船業が発達してきた日本は、第2次大戦前には世界第3位の船腹量を保有するほど海運業が成長し、戦艦大和をはじめ世界有数の海軍強国にもなりました。
先の大戦により日本海運業が事実上壊滅したことと比べて、造船業はほとんど無傷で終え、世界経済の成長の沿って、終戦から約10年で世界最大の造船国となりました。しかし、オイルショック後の造船不況とそれに伴う国策により、日本は大きく没落することとなります。
一方、2000年に建造量、受注量、手持ち工事量の全てで、韓国は世界1位の日本を抜くこととなったのです。今回は、この韓国造船業の戦後の歴史を見ていき、その概要を掴もうと思います。
※受注では1993年に僅かに日本を抜くことがありました。
※海外造船業の資料は少なく、また同じ事項でも内容が異なっていたり、そもそも古くて使い物にならないものもあります。そのため、本記事で記載されていることがすべて正しいとは言えないことをご了承ください。
出所:平成23年版海事レポートより第Ⅱ部第2章船舶産業分野。
~お品書き~
近代型造船業の始まりと戦後初期
近代造船業の始まり
木造の小型漁船などはそれ以前から建造があったと思いますが、朝鮮半島における近代型鋼船の建造が開始されたのは、1937年といわれてます。
1910年の日韓併合から大日本帝国の一部となった朝鮮半島では日本による近代化が進められ、中でも1930年代に入ってからは半島の工業化は急激に進みました。造船業についても同様で、1937年に朝鮮総督府が三菱重工を招き 「朝鮮重工業(現、HJ重工業(韓進重工業が社名変更したそうです。)」を設立したのです。このため、同社の影島造船所は半島で最も古い鋼船造船所となります。
※このような背景から、朝鮮重工業の経営幹部には当時の三菱重工業出身者も名を連ねていた。
なお、朝鮮重工の建造については、「主に日本の海軍艦艇を造っており、貨物船建造の実績は 1939 年の 390 総㌧級 1 隻だけだった」や「1945 年までに朝鮮郵船向けなどに、1万トン迄の貨物船を建造した」とあります。
※建造設備については、「(※総トン数)3,000 トン級の船舶3隻を同時に建造し、7,500トン級の船舶を修理しうる能力を有していた」との記載あり。
出所:韓進重工業HP歴史より。
第2次大戦の終戦と分割統治
台湾や朝鮮半島を含む大日本帝国は、残念ながら1945年に敗戦を迎え解体されることとなります。半島に関しては38度線を境界に米ソが統治することとなりましたが、その5年後に朝鮮戦争が生じました。
朝鮮戦争は当初北側が優位で、一時は南端まで追いやられましたが、仁川上陸戦などで南側が巻き返し、今度は一時北端まで進攻しますが、中国の参戦など最終的に38度線を境に停戦が結ばれました。
つまり、韓国における造船業の発展は、第2次大戦後すぐから始まるものではなかったのです。事実、世界の造船市場に韓国の名前が登場するのはもっと後のことです。
本格的な新造船事業の開始
1950年代の建造はそのほとんどが木造船であり、鋼船建造は限りなく少ないものでした。そもそも、鋼船建造を行う企業が朝鮮重工の後を引き継いだ大韓造船公社(以下、造公)くらいであり、また、韓国政府による第1次経済開発5ヵ年計画(1962年開始)においても造船を含む重工業の建設意思はあったものの重工業化は失敗し、結果的に棚上げされてました。
※1961年5月16日に韓国では軍事クーデターが発生しましたが、その名分の一つには経済成長があり、重工業化が図られました。
※朝鮮重工業は第2次大戦終戦後に米軍政管轄下となり、1950年に韓国政府が国営化、68年に民営化されました。
特に、当時発展途中にある韓国海運業も商船購入は中古船がほとんどで、自国からの需要もほとんどありませんでした。そのため、外航可能とされる総トン数5,000トン以上の船舶が建造されるのは60年代後半まで先のことでした。
※1968年頃のトンあたり生産コストは、4,000トン級貨物船建造の場合、日本330ドル、造公393ドルだった。
出所:韓国造船産業の立ち上がりと技能人材形成一1960年代大韓造船公社の事例分析一 より。
輸出に頼る産業方針
60年代の鋼船建造は造公が主体であり、同社はまずは小型船を自給し、徐々に大型船の自給に向う戦略をたてました。公社である以上、当時の政策に沿った動きを取っており、それは輸入代替(韓国の船主に自国造船業に発注してもらうこと)を目的とするものでした。
しかし、技術や既述のコスト面で勝る日本に勝つことは叶わず、稼働率も悪化しておりました。そこで、目を付けたのが輸出船への道です。というよりも、そうして稼働率を上げる以外に道はなかったと言えます。
なお、1960年代の輸出船は、日本からの製造下請やベトナムへのバージ船の輸出、台湾への250総トン漁船20隻の程度でした。本格的な輸出船が始まるのは70年代からとなります。
巨大造船所の大規模新築へ
国策としての造船業
1967年から始まる第2次経済開発五か年計画では、国策として育成する産業が選択されえ、造船も含まれることとなりました。指定された産業は参加企業を許可制として、税制、金融面で優遇されました。
これは、国営である造公が赤字を垂れ流したことから、造船産業は民間主体で行う考えを持ったことが要因の一つです。結果、造船業に民間が多く参入し、現代グループも造船史に登場することとなります。
現代グループの参入
当時の現代グループは建設を主としており、建設業の限界から多角化の一つとして造船を選んだのです。また、韓国政府より現代グループ会長に造船所建設を勧めたことも要因の1つだったそうです。
なお、当時の現代建設は、三菱重工を含め海外数か国の造船企業との合弁を図りましたがいずれも断られ、建設計画を諦めようとした際、「当時の大統領が、いかなる政府の支援を現代の会長に与えないように」と激怒し、やむなく造船所の建設計画を続行したそうです。政府からの脅しもあり造船業に参入し、1972年に蔚山造船所が起工されることになりました。
※ここまでして政府が造船所を建設させたのは、1969年の四大核工場計画と呼ばれる機械産業育成計画が背景にあり、20万トン級の造船所を建設し輸出用船舶を建造することが含まれてました。なお、計画は実現しませんでした。
大型船集中型の韓国造船業
小中型船から徐々に大型化していった日本と異なり、韓国は1960年代や70年代のタンカーブームを目にし、VLCCなど超大型船市場に参入することを目的に業界へ参入しておりました。つまり、始まりから大型船集中型だったといえます。
また、1973年に長期造船工業振興計画が策定されました。その内容は、80年までに遠洋漁業造船所を2か所、中型造船所を2か所、大型造船所を5カ所建設するというもので、さらに85年までに中型造船所を2か所、超大型造船所を3カ所建設する計画でした。
この内、大型造船所として最初に誕生したのが現代であり、2番目として計画されたのが玉浦造船所となります(同造船所は造公が建設事業者として1973年に選定されました)。また、造公が民営化された際に買収を試みた三星(サムソン)も同時期に再び造船業への参入を考え、3番目の大型造船所として政府より許可を得ました。
※現代の蔚山造船所は当初10万総トン級ドックを計画してましたが、50万トン級ドックに変更しました。また、造公の拡張計画も政府は持っており、10万総トン級ドックの新設が描かれてました。三星は最大建造能力100万DWTを計画してました。
オイルショックと不況対策
1973年に生じたオイルショックにより、原油市場が大打撃を受け、その流れから原油タンカー需要が激減しました。タンカーブームに乗るために新築した造船所や計画が全て方向転換を余儀なくされたのです。
計画造船や助成金などの不況対策が当然行われたわけですが、韓国では資金力のある財閥に半ば強制的に中型造船所の買収を命じました。
3大造船業体制
現代
現代はすでに述べた通り、第1番目の大型造船所として稼働を始め、オイルショックに見舞われました。オイルショック不況のすさまじさは、74年に2隻のVLCCを受注したのを最後に86年までの12年間VLCCの新規受注が同社は無かったほどです。
そもそも、現代の躍進は設計やエンジンなどを海外に依存し、組立のみを行っていたからにほかなりません。日本と異なり、草創期から大規模かつ先進的な建造設備を導入でき、ノウハウについては日英などから取得できました。
三星
三星は1977年に宇進造船を引き受け三星造船となりました。この宇進とは74年に設立された高麗造船のことであり、年間10万トン級船舶を4隻建造できる中型造船所でした。
当初は三星が引き受けを拒否しておりましたが、最終的に買収を強制され、79年に船舶建造を開始し、ドックの建設工事も完了しました。
出所:韓国の造船大企業における企業間取引と生産ネットワークの変化ー三星造船を事例としてー
大宇
大宇は1978年に玉浦造船所を買収し、大宇造船としました。この造船所は既述の通り大型造船所として73年から整備が行われておりましたが、78年には工事が中断しておりました。
大宇も当初は引き受けを拒否してましたが、政府が事業計画書を無理やり作らせたのみならず、同社会長が海外出張中に「大宇が引き受けた」と一方的に、かつ勝手に発表しました。
結果、79年から建設を再開し、81年に100万トンドックが完工しました。
設備規制の解除
さて、上記のような再編と同時に、韓国では1989年に造船合理化法が策定され、設備の新増設や拡張に対する規制が敷かれました。日本が2度の設備処理で建造力を半減させ、新築や拡張を規制していたのと同じですね。
しかし、この法律は93年末に解除されることとなりました。そもそも時限立法であったのですが、日本が規制を続けていたこととは対照的でした。そして、上記3社が競って建造設備の新設を行ったのです。
※この設備新設は凄まじく、日本が処理した設備総量以上のものでした。
出所:2000年度 欧州造船政策動向調査 第三部 国際造船市場の変化-欧州・韓国造船摩擦の背景-
※1994年3月に開催された第86回OECD造船部会では、欧州、日本に加えて米国も韓国の造船設備拡張について、厳しい批判を行った。
1997年3月時点で、韓国の主要造船企業の設備は下図のようになりました。また、このような新設や拡張により、97年の設備は90年の約2倍になりました。
2000年代以後の韓国造船業
2000年、韓国は文字通り造船王国の座を手に入れることとなります。一方、韓国造船業ではアジア通貨危機などにより再び撤退と買収が行われ、財閥系企業の戦力がより一層強化されました。
2005年の設備で見ると、現代重工の設備が異常なほど増加していることがわかると思います。主力の蔚山造船所は新たに第8、9ドックを新設し、大型船建造設備が増強されました。また、97年に破産手続きを開始した漢拏重工業(1977年創業)を現代三湖重工業として傘下に収めました。この他、川崎重工との合弁で修繕目的で設立した現代尾浦造船も2005年に修繕から完全撤退し新造船へシフトしました。
大宇、三星も大型船設備を増加させ、大型船建造はこの3社で行われるようになりました。
※建造最大船型については、数値が誤っていると思われますので、ドック数や規模のみを重視してください。
中国の躍進と2010年
日本が約半世紀に渡り王座を有していた一方、韓国はたったの10年間しか維持できませんでした。中国の台頭です。
以降、世界の造船は中韓がシェア30%程度ずつを維持し、日本が20%程度を有する状態になります。実に8割以上がアジアで建造されていることになりますね。
※2010年は現代は郡山に大型ドック1基(全長700m、全幅115m)を新設した年でもあります。同ドックは現代にとって最大級の設備でしたが、2017年に閉鎖されました。
これからの韓国造船業
最後に、執筆時の韓国造船業を見てみましょう。
別投稿にも書いた通り、韓国は現代重工が大宇造船を傘下に収め韓国造船海洋という企業が誕生する予定です。同社は単体で世界シェアの2割を占めることが予想されております。
つまり、ビック3が韓国造船海洋と三星重工の2社になるわけですが、事実上、現代が群を抜いてトップに立つこととなります。
出所:造船業の現状と課題。
おわりに
今回は韓国の造船業の流れを見てきました。1970年代の本格参入からわずか30年で世界1位の座に就いた産業ですが、約10年でその地位を奪われます。
韓国造船業の成長の経緯は何と言っても国策が大きな影響を与えておりましたね。造公の失敗から民間主体で産業活性化が図られ、経済計画や産業法により大きな支援を受けました。
特に、彼らは日本のように徐々に技術を蓄えるのではなく、始まりから圧倒的な規模の造船所を新築し、設計やエンジンなど技術優位の無い分野を海外に依存し船舶組立に注力する戦略でした。
造船における生産技術の蓄積や工場レイアウト、クレーンなどは当時世界最強の造船国である日本から学ぶことが出来、現代や三星などは日本との合弁や協力を得て成長を遂げてきました。後発優位性という経営用語がありますが、韓国造船業の成長はまさに当てはまる言葉だと思います。
一方で、建造船種の面でも日本と大きく異なります。韓国造船業が本格的したのは60年代や70年代初頭のタンカーブームに乗るためであり、当然、設備も当然VLCC建造を目的に新築されました。また当時の政府方針から大規模な造船所を一カ所にまとめるという方針もあり、結果的に日本のような造船所の分散はありませんでした。
日本の造船を「歴史的に徐々に拡張を遂げ成長してきた」と言うならば、韓国は「国策として大規模造船所を一カ所にまとめて急増した」と言えます。そして、これこそがコンテナなどのロット受注を受ける基盤となったのです。
※日本が国策として設備を半減させた一方、韓国は日本の処理量以上の設備を増強し、より一層巨大化しました。
しかし、2020年を過ぎた今でも日本のように自国で舶用機器などがすべて賄えることは無く、海外に依存している分野もあります。LNG船ではカタール国営による大量発注がありましたが(コロナにより延期)、韓国が建造するLNG船はフランスへ特許使用料を払わねばなりません(国産化に成功したとの話もあります)。この他、舶用機器も海外依存度が依然として高い現状にあります。
私は中韓の造船業に強くは無く、今回調べるにあたり自身にとっても良い勉強となりました。韓国造船海洋の今後も気になるところですが、一方で大宇造船へのWTO違反とも言える公的資金援助など大きな問題もありました。
今後の動向を見ていきたいと思います。
参考文献
・河合敏雄(川崎重工 OB)「KS 海友フォーラム 造船における技術協力よもやま話 Ⅱ 川崎重工業編「現代重工業」の巻2012年7月12日」.
・祖父江利衛「1960 年代韓国造船業の混迷ー大韓造船公社の設備拡張計画を巡る一連の過程とその帰結」.
河合和男「植民地期における朝鮮工業化について」.
金 鎔基「韓国造船産業の立ち上がりと技能人材形成-1960年代大韓造船公社の事例分析」.
呂 寅満「韓国の産業構造変化・産業発展・産業政策」.
木下 奈津紀「韓国大宇財閥の「玉浦造船所」引受けに見る政府と財閥の関係」 .
泰錫满「1970年代初頭現代グループの造船工業参入過程の分析—韓国経済開発期における国家と民間企業の役割に関する再検討ー」.
石崎 菜生「第1章 韓国の重化学工業化政策と「財閥」―朴正熈政権期の造船産業を事例として―」.
禺 濡蔓「韓国の造船大企業における企業間取引と生産ネットワークの変化ー三星造船を事例としてー」.
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