今治と聞くと何を思うでしょうか?しまなみ海道や来島海峡、あるいは今治城など有名な観光地もあり、また昨今ではかなり有名になった今治タオルもありますね。
さて、世界の造船市場において、今治は日本最大の造船産業地域として知られております。特に国内建造量1位の今治造船は瀬戸内を中心に展開しており、世界市場で唯一戦えている企業でもあります。
ちなみに、企業シンボルは$(ドルマーク)と似ていることから、船主には「お金を運んできてくれる船」と評判です。
ここでは、今治造船の社史やそのグループ規模、建造船種、戦略などを紹介します。
~お品書き~
今治造船略史ー祖業と再建の時代
今でこそ国内1位の建造量を誇る巨大グループとなりましたが、その始まりは個人経営の小さな木工船造船所でした。100年を超える歴史を持つ今治造船、そこに至るまでの歴史には様々な紆余曲折があったのです。
祖業と戦争
今治造船の祖業は、1901年に檜垣為冶氏が波止浜湾の小浦に一本釣り漁船や伝馬船の建造・修理を目的に設立した檜垣造船所とされてます。その3年後が日露戦争の年なので、かなり長い歴史がうかがえます。
※上記檜垣造船所は後に正一の兄である繁一氏、弟である久雄氏が引き継ぎます。その後、繁一氏は(株)繁造船、久雄氏は檜垣造船(株)を創業します。
ただし、この檜垣造船所がその後の今治造船となったわけではありません。今治造船の設立が1942年とされているのは、シナ事変から第2次世界大戦までの戦争の歴史と大きく関係しております。
今治造船と今治船渠
戦争需要のため資材統制が行われていた当時、三菱など軍艦や軍需船の建造を担っていた企業と違い、檜垣など個人経営で木工船を建造していた民間企業は資材も労働力も不足のする状態となってました。
そのような環境において、渋々ではあるものの個人経営の民間企業の合併が進められました。先の檜垣造船所の創業者の息子(正一氏)が1933年に兄弟で創業した檜垣造船有限会社という会社があります。この檜垣造船と村上(実)造船、渡辺造船、村上造船、吉岡造船、黒川造船の6社が合併して、1940年に今治造船有限会社が誕生しました。この合併は資材調達を有利に運ぶためといわれてます。
同時期、今治では今治船渠株式会社という企業が誕生しました。上記の今治造船はあくまでも造船会社同士の合併で誕生しましたが、こちらの今治船渠は「戦争のために本業を圧迫された商工業者が、国防産業として発展が期待できる造船業界への展開をはかろうとした(データベース『えひめの記憶』愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行四軍需産業の展開ー造船・機械より)」もので、今治市内の有力業者が出資して作りました。
そして、1942年、四国海運局が”技術力はあるものの資金がない今治造船”と、”資金力はあるものの技術力がない今治船渠”の合併を強引に進め、今治造船の反対を押し切り無条件で合併することとなりました。これこそが今治造船株式会社の創業となり、木造の戦時標準船を建造することとなります。
休業と再統合
しかし、1942年の設立からわずか3年後、第2次大戦は終戦を迎えます。そして、今治造船は戦後しばらくは仕事が無く、多くの社員が離散、会社も1954年に休業することとなります。
その間に、檜垣造船(有)を創業した正一氏(現場監督として今治造船で務めていた)も今治造船から離れ、波止浜湾の大浜に檜垣造船所を設立しました。
木工船から鋼船へ
戦後は需要が木造船から鋼船に変わっていき、小規模造船各社もそれに対応しなければならなくなりました。
※愛媛県内で昭和20年代(1945~1955年)に鋼船を建造できる造船所は来島船渠(現、新来島どっく:1953年に鋼船建造開始)と波止浜造船(社名変更前は伊予木鉄造船。現、あいえす造船)の2社のみでした。
http://bin.t.u-tokyo.ac.jp/~hato/summer/hashihama2.pdf
さて、鋼船への移行ですが、正一氏には次男の文昌氏がいます。氏は1946年から1950年まで伊予木鉄造船に勤めており、檜垣造船所に戻ったことで鋼船の設計・建造の技術を得ることができました。その後、電気溶接やガス溶接の設備を導入して、鋼船へ転換する準備が進められたことは言うまでもありません(波止浜船渠造船所より)。
今治造船の復活
今治造船の休業を聞きつけた正一氏は今治造船再建に乗り出すため、檜垣造船所を吸収合併する形で戻ることとなります。休業の翌年である1955年には企業を再開し、さらに翌年に鋼船第1船となる「富士丸」を建造してます。
※今治造船HP 会社沿革より。なお、富士丸は鋼船の新造船第1号であり、それ以前に鋼船既存船の改造として勇正丸(293GT、450DWT)がある(今治造船史より)。
この1956年は日本がイギリスを抜き世界一位の建造国になった年であったものの、その主役は三菱や日立など大手重工業系企業でした。今治や来島などは、彼ら大手が建造しない船舶を作りました。
ただし、今治造船は鋼船に乗り出した一方で木造船も続けると言う体制で、設備も499総トンの船台5基のみと、来島や波止浜に劣るものでした。今治が鋼船一筋になるのは1959年以降の話です。
今治造船略史ー拡大と躍進、そして設備処理へ
ここまでで、今治造船の始まりから解散や休業等の歴史を見てきました。今治造船の誕生は当時の環境もさることながら、海運局からの指導もあったと言われており(今治造船史より)、時代に翻弄された時代でしたね。
戦後は社員の離散や会社の休業などが生じ、今治造船は檜垣一族の下で再建を果たしていきます。これからは、今治の躍進の時代を見ていきましょう。
自社工場の拡大
※各種資料より著者作成。2004年までのデータであることに注意。
今治造船の建造設備拡張は、建造する船舶の大型化に伴うものです。今となってはシリーズ船は全社で行われるものとなってますが、当時はお客様の要求に沿った船舶を適時開発することが多くありました。そのような中、来島に続き今治もシリーズ船を主体とした建造戦略を選択しました。
本社工場は図の通り拡張や埋め立て、新設など時代により大きく拡張されてます。今治造船が外航可能とされる総トン数5,000トン級の船舶を建造できる設備を有するのは、1969年のことなのです。
丸亀進出と三菱との提携
ただし、このシリーズ船の大型化は予想以上に早く、しかし造船所がひしめく本社工場での拡張はいよいよ不可能なところまで来てました。そこで、今治造船は工場新設の必要性を感じ、1970年に丸亀臨海工業地帯に進出する契約に調印しました。これが現在の丸亀事業本部となります。
また、翌1971年は初の総トン数5,000トン級船舶の建造を行い、外航船市場に参入することとなります。ここで重要なのが、三菱重工との提携です。
外航船を建造できる段階になったものの、まだまだ大型船建造などは経験が浅いものでした。一方、丸亀に新設する工場は大型船建造のための設備であり、運輸省(現、国土交通省)としても技術を持つ大手企業との提携が望ましいとしてました。そこで、今治は三菱と業務提携をし、その2日後に運輸省から設備新設の許可が下りました。
※業務提携の内容は技術指導やデータ提供、設計指導、資材購入などの相互協力のほか、三菱が受注した工事の今治への委託なども含まれてました。
2017年に三菱が今治、名村、大島と提携を結んだという発表がありましたが、その約50年前からすでに両社は提携していたのですよ!
さて、ここで丸亀事業本部の略史を少し見てみましょう。
丸亀工場では1971年に第1船台で第1船が起工されたとありますが、当時は丸亀臨海工業地帯そのものが埋め立ての途中で、丸亀工場も建設途中でした。翌年はこの船台がさらに拡張され総トン数30,000トンにまで増加しました。
一方、丸亀の設備拡張の関連から、運輸省より建造設備のスクラップを求められることとなりました。その対応のため本社工場の船台2基を廃止し1基を拡張、修繕用のドック1基にプラスして新たにドック新設を行いました。
そして、その後オイルショックに見舞われることとなります。ちなみに、1975年時点の今治造船の設備は以下の図の通りです。
設備処理とグループ化
設備処理については造船研究にて解説する予定ですが、簡潔に言うと、過剰な新造設備を国策として処理しましょうというものです。
※大手が建造していたVLCC(超大型原油タンカー)の需要が激減した一方で、今治など中手が建造していたバルク船の需要はそれほど影響がなかった。
第1次設備処理(1980年)
この設備処理は今治造船が単独であれば丸亀の船台とドックの片方を破棄すれば処理目標を達成できました(中手Bに分類された今治造船は新造船設備の30%を処理することが求められてました)。なお、これを実行すると今治の競争力が限りなく低くなることは当然の話です。
実は、この設備処理はグループ化による対応が国から許可されており、今治は自社を含む7社で設備処理に臨むことを選びました。
この7社での共同処理ですが、この内、今治と檜垣以外はすでに倒産していた企業でした。また、面白いのが、設備を処理するための国策なのに、今治はちゃっかり設備が増強されております。これは、今治の第1船台と今井の第1船台を書類上交換したためです。
※このあたりの話は造船研究にて詳しく説明する予定です。ちなみに、この設備処理の話だけで多数の論文が投稿されておりますので、興味ある方は是非調べてみてください!
更なるグループ化と第2次設備処理(1988)
ここで、少しややこしくなるのですが、設備処理のためのグループとは別に事業としてもグループ化が進められました。
1980年時点で新山本造船、今井造船、西造船、大浦船渠が系列化に置かれ、1983年に幸陽船渠から岩城造船を買収、3年後に経営危機に陥った幸陽船渠も傘下におさめました。
※1980年時点、今治グループには1万総トン以上の修繕ドックが丸亀の1基しかなく、新設はスクラップ・アンド・ビルド方式でしか許可されていなかった。当初は三菱のドックを処理する予定だったが、今治と三菱の系列関係が運輸省が認めるものではなく、今治は岩城を買収し、その修繕ドックを処理し新設する計画だった。なお、その後、修繕ドックを多数保有する幸陽船渠を買収できたため、修繕ドックの新設そのものが不要となった。
続く第2次設備処理では、今治は三菱と共同で処理を行いました。今回はグループの全体の合計の約20%を処理ということとなり、そして今治は無傷で乗り越えました。
今治造船略史ー建造量国内最大の造船所へ
2度の設備処理を終え、2000年、用地を購入していた西条に大型の建造ドック(長さ420m、幅89m)が完成することとなりました。国内の大型ドック新設は1975年の波止浜造船以来のもので、この次の大型ドック新設もなんと同社の丸亀に建設されました。
2000年以後、本社に隣接するハシゾウを系列化し、幸陽船渠と岩城造船に新造用のドックを新設(修繕ドックの埋め立てや新造へ転換)、新笠戸ドックを系列化するなど、グループは大きく変更することとなりました。
また、傘下の幸陽船渠を広島工場へ改組したり、常石造船の多度津工場の売却に従い同工場を買収、ついに2017年に丸亀にドックを新設し、当時世界最大のコンテナ船が同工場にて建造されました。翌年には倒産した南日本造船も買収するなど、拡大路線は今もなお継続してます。
提携の面でも、三菱とのコンテナ船の生産や共同出資のLNG船設計・受注会社の設立、そして今治造船とジャパンマリンユナイテッド(JMU)との提携などが、まさに国内の造船業を大いに賑わせた会社が、この今治造船でした。
今治の強さとは
わずが半世紀で国内最強の造船企業となった今治、なぜそれほど強大になったのでしょう。少しだけ、分析してみましょう。
強みその1:企業規模の大きさ
日本の造船は1社1船台、1社1ドックと言われるほど各造船所の規模が小さく、後発の韓国や中国などが行った大規模拠点型ではありませんでした。
今治造船にしてもそれを避けることは出来ず、西条などは今でもドック1基のみですね。ただし、今治はそれをグループ化により解決しようとしております。それも、ただ倒産した企業を買収するのではなく、瀬戸内を中心に展開することで立地面での不利を補っているのです。
例えば、JMUは商船建造拠点として有明、呉、津とかなり離れており、今治のように車で1~2時間圏内とはいきません。
さらに、買収により設備だけではなく技術者なども同時に手に入れることが出来、よく言われる設計者不足なども同時に解消してきました。鋼船の始まり然り、自社の不足分を他社で補うのはとても戦略的といえますね。
また、上記のように、略的な拡大路線を続けたことで、昨今市場にさえ参入できなかったロット受注にも参加できるようになりました。これまで大型コンテナ船のロット受注は韓国がほぼすべてを受注していると言っても過言ではなく、国内初の2万TEUコンテナ船についても6隻中4隻がサムソン重工で建造され、残り2隻を今治が建造したにすぎません。
しかし、今や台湾から同規模船を11隻受注できるなど、本当の意味で市場参入資格を得られました。ただ、これはあくまでもコンテナ船での話であり、LNG船などは今後どのように推移していくのか不明です。見守っていきたいですね。
強みその2:船の百貨店
経営戦略論ではフルライン戦略と呼ばれるものがあります。これは市場の全セグメントに手を出し利益を上げるなど、まさにリーダー企業しか選択することが出来ない戦略です。
例えば大手であった三菱は客船やLNG船に特化、住友はアフラマックスタンカーに特化してます。中手は規模は違えどバルク船一択と言えます。一方、今治はバルクからコンテナ船、VLCCなど軍艦以外はほぼほぼ建造実績があり、文字通り何でも揃う百貨店となってます。
※2020年の建造船は86隻(約381万総トン)であり、建造船種の8割以上が各種サイズのバルクキャリアです。バルク以外にはチップ船やプロダクト船、フィーダーコンテナ船、そして10年ぶりに建造したVLCCなどです(今治造船HP令和3年新年のご挨拶より)。
強みその3:愛媛オーナーと海事クラスター
今治造船の顧客には愛媛船主(エヒメオーナー)の存在があります。日本の外航船の約3割以上を彼ら零細企業が握っていると言われており、今治は彼らと強力な関係を築いています。
日本造船業の受注のほとんどが5隻以下というのは、こういう強力な国内船主の存在もあると言えますね。
また、中国や韓国と違い、日本は船の100%をすべて国産化しております。中でも今治は海事クラスターと呼ばれる集積地となっており、各舶用機器メーカーと意見交換がしやすく、船主の依頼に応えることができます。
出所:愛媛銀行海運業の発達と現状~世界に誇れる地場産業「愛媛船主」の概要~より
おわりに
今治造船の略史と戦略を見てきました。いかがだったでしょうか?
あくまでも企業紹介に留めているため、より本格的な内容についてはここでは触れていません。ここまで詳細なデータがあるのは私の大学院時代の研究対象の1社だったからです(笑)
非上場のオーナー企業ということでそもそものデーターが少なく、さらに企業社史は古いものしかないという状態でしたが、国内最大ということもあり海運造船関係の雑誌や日経新聞など関連資料からの推察は何とかできてました。
今治は建造量国内2位のJMUとの提携が発表されており、2021年1月付けで両者の営業と設計を統合した新会社「日本シップヤード」が設立されます。一方で、韓国の現代重工と大宇造船の統合により、1社で世界シェアの2割を有する企業が誕生する予定です。中国国営2社の統合も予定されており、世界シェア2割を持つ企業が一気に2社も誕生することが確定してます。
一方、今治とJMUのシェアはたとえ両社が統合されても世界シェアは1割を少し超える程度であり、これからどう戦えるのかという課題がなおも付きまといます。
今後も注視する必要がありますね。それでは!
コメント
よくわかりました。
ありがとうございます。
そういっていただけると幸いです!