企業紹介第3弾は、新来島どっくグループです。
新来島どっくといえば再建王「坪内 寿夫」氏と深い関係がある造船会社です。
その傘下には、かつて佐世保海軍工廠を引き継いだ佐世保重工も属していたほどで、もし坪内氏が経営参画しなければ佐世保重工は倒産していたと言われてます。
~お品書き~
新来島どっくの現状
新来島どっくグループは中型の特殊船建造に強みがある企業です。このため、建造量ランキングでは少し後ろに控えておりますが、売り上げだけで見ると三菱造船や常石造船、大島造船などと同等レベルを出しており、純利益も堅実な数字を維持してます。
建造船種
かつては大手重工業企業がVLCCといった超大型船を建造し、中手専業企業がバルクキャリアなどを建造してきました。1970年代ごろからは中手企業がVLCC市場に参加しようと大型船建造設備を新設していきます。
来島グループは、その波に乗らない選択を行いました。大型船の建造ではなく、中型の特殊船に焦点を合わせたのです。このため、早い時期から自動車運搬船やケミカルタンカー等の建造を開始し、その実績を深めていきました。
自動車運搬船は6隻に1隻が来島製(世界シェア約17%)で、ステンレスケミカルタンカーは9隻に1隻(同13%)と、特殊船に強みがあることが伺えますね。
※PCC「SIRIUS HIGHWAY」
全長199.96m、全福38m。20,419DWT(重量トン)。約7,500両の自動車を運搬。
新来島どっくの建造力
出所:HPより著者作成。
グループでは新来島どっく、豊橋造船、新高知重工の3社が新造、修繕事業を行ってます。ただ、図の通り波止浜と大西以外はかつての拡大時にグループ化した企業で、自社で工場から新設したわけではありません。
また、中型特殊船の建造に特化したため、建造設備は数は多いものの、設備の大きさは中程度に収まってます。豊橋造船のみ、グループ参加前にVLCC市場への参入を目的にドックを新造したので、VLCC建造可能な設備を有してます。
新造能力は船台5基、ドック4基の計9基で、内200m越えは船台・ドック合わせて5基のみです。建造の主力は大西工場で、自動車運搬船はここと豊橋で建造されてます。新高知はバルクキャリアが基本で、広島がケミカルタンカーを主としてます。
修繕事業ではドック4基に浮きドック2基の計6基を有しており、おもに小~中型船を対象にしております。
塀の無い刑務所
実は、大西工場内には刑務所があります。追い込み部屋とかじゃありませんよ(笑)
正式名称は松山刑務所大井造船作業場といいます。残念ながら、海峡を泳いで広島まで脱走した事件で有名になってしまいましたね。本当は再犯率の少なさや自衛隊並みかそれ以上の規律で有名になってほしかったです。
私自身も工場見学で見学させていただきましたが、言われるまで刑務所だと気が付きませんでした。それほど馴染んでいるのです。設立の経緯などはこちらのノンフィクション小説を読むと楽しめます。
海自油槽船(YOT)
YOTは顔文字ではありませんよ(笑)
海上自衛隊が新たに調達を決めた輸送船の名称です。4,900トン型で、内航タンカーをベースに建造される予定です。
別記事にて投稿しておりますので、よろしければこちらもご覧ください。
坪内氏から始まる造船事業
波止浜船渠と来島船渠
実は、来島の祖業は再建から始まりました。
始まりは1902年に創業した波止浜船渠にまで遡ります。1920年に不況により一時解散し、その後復帰するも1940年には資材統制により経営難に陥ります。
この後、住友による資本提携を受け鋼船建造を始めます。ちなみに、今治地域で始めて作られた鋼船はこの波止浜船渠によるとされてます。
終戦後、財閥解体により住友から離脱することとなった波止浜船渠は、1949年に解散し来島船渠として生まれ変わります。そして、その半年後に休業に陥りました。
ここまでが、まだ坪内氏が参加するまでの下地です。戦時下に住友からの資本で設備は拡張され、技術力を蓄えていました。この資産を元に、坪内氏による発展が始まるのです。
なお、このころの波止浜周辺の造船事情については、こちらをご覧下さい。PDFに飛びます。
※ちなみに、住友傘下時には二D型戦時標準船の建造も行いました。
戦時標準船入門―戦時中に急造された勝利のための量産船 (光人社NF文庫)
坪内氏と来島型標準船
ドッジ不況下で工場閉鎖にまで追い込まれた来島船渠ですが、波止浜町長の幾度もの再建依頼に、ついに坪内氏は答えることとなりました。1953年の事です。
坪内式の戦略はこれまでの常識と大きく異なるものでした。
まず、当時の船舶建造は基本的に受注生産のオーダーメイド製品でしたが、坪内式は標準船戦略を選択します。これが来島型標準船です。
※標準船戦略により、工場は同じ製品を作ればいいので経験効果が得られ、納期短縮のほか資材の大量発注によるコスト低下が得られます。このことで、顧客も安く早く手に入れられるのです。
次に、支払を月賦性(月極めローン制のことです)にし、支払い能力の低い船主(船の所有者)でも購入可能としました。
詳しいことは 国際留学生協会 坪内寿夫や愛媛県生涯学習センター愛媛県史社会経済3商工 四 重化学工業化―造船に詳細が書かれてます。
まとめると、
鋼船が欲しいが資本が足りず、現有の木造船で我慢している零細船主に対し、ローンで鋼船を販売しようとした、と言うことです。
この戦略が大当たりし、1959年から建造が本格化します。この後、急成長をとげていくのです。
拡大戦略と佐世保重工、設備処理
来島船渠は船舶大型化への対応として、1961年に大西工場の新設にかかります(1968年完成)。また、同年に経営難に陥っていた宇和島造船を傘下におさめました。別の年には高知重工(1965年倒産?)を傘下に入れるなど、拡大路線を辿ります。
※この大西工場は戦時中に住友が計画したものです。戦時標準船の大量建造に対応するため、住友が波止浜船渠の建造能力を向上させるために計画されました。終戦に伴い工事が中断され放置されていました。
来島の拡大路線は、基本的には倒産企業や再建が必要な企業を受け入れる形で行われてきました。これは造船に限らず、来島グループの全てに当てはまることです。このため、グループ総数は一時180を超えたそうです。
そして、オイルショックによる造船不況でも、坪内氏はその考えを続けたのです。1978年、来島の何倍もの人員、資産、歴史ある佐世保重工業の社長に就任します。
設備処理では次のグループで行われました。
第1次設備処理
少しややこしいのですが、第1次設備処理(1980年)では来島グループとしての設備処理と、グループ傘下であるが共同処理を行わなかった企業があります。例えば、金指造船所は1982年にグループに参加しましたが、設備処理は単独で行いました。函館ドックや下田船渠も同様です。
なので、来島どっくグループの第1次設備処理は来島どっく、高知重工、宇和島造船、太平工業、佐世保重工の5社で行われました。
第2次設備処理
佐世保の再建を託され成功させましたが、続く2次不況で来島どっくグループ自体が不況下に陥ります。そして、1986年、来島どっくグループは事実上の倒産を迎えることとなります。来島どっくは負債管理会社来島興産となり、新造船事業は新来島どっくが引き継ぎます。
第2次設備処理(1988年)に対して、来島グループは7社共同で処理を実行しました。処理後、佐世保と函館はグループから離れることとなります。この2社が今名村造船の子会社になっているのは面白いですね。
佐世保重工についての私の考え
少し本編とはそれますが、私の佐世保重工に対する考えを伝えたいと思います。
佐世保重工の救済については大きく評価が分かれるところですが、私は坪内氏の支援が無ければ間違いなく倒産していたと考えます。大手重工業メーカーと同じ戦略、つまりはVLCCの大量連続建造を行った佐世保重工は、オイルショックで大打撃を受け、退職金も支払えない状態でした。
そして、私は佐世保は倒産させるべきだったと思います。それは今でも変わりません。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/219592/1/kronso-sp_37_75.pdf
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/602-03.pdf
さて、佐世保重工ですが、この救済には坪内氏が自ら始めたわけではありません。国からの依頼に応じたのみです。もっとも、大規模なドックとVLCC建造可能な技術を有する佐世保は確かに魅力であったことも伝えておきます。
ではなぜ、国が佐世保を倒産させるのではなく救済させるべきだと考えたのか。これは日米を含む軍事観点からでした。
佐世保重工業はかつて佐世保海軍工廠であり、修繕能力は他の民間企業とは段違いに大きな設備でした。佐世保重工の倒産はこの設備を失うことと同意で、それは朝鮮半島をはじめ極東アジア地域に対する安全保障力のプレゼンスを弱めることにつながります。日米両政府はこの問題を強く認識し、だからこそ再建を志したのです。
国防上の観点から必要なのであれば、国が助けるべきでした。それを坪内氏に負担させたのです。
最終的に再建は成功しますが、第2次オイルショックで再び経営難に陥ります。来島どっく本体も不況に飲まれるなど、佐世保を助けることが難しくなります。結局来島どっくは来島興産として負債管理会社となり、造船事業は新来島どっくグループとして新設されました。佐世保とのかかわりはこれで切れることとなります。
拡大路線の終わり
新来島ドックグループに再編がなされ、拡大路線は一様の終わりを迎えました。それでも、来島船渠時代からは大規模に拡大し、建造量も上位に位置するほどにまで成長しました。
一方、既述の通り佐世保や函館が離れたことで、建造力の総数は減少しました。この後の造船事業の拡大は、2006年の西武造船のグループ参加程度しか見られません。
おわりに
第3弾、いかがだったでしょうか?
新来島どっくグループはかなり濃い歴史があり、私も院生時代にぐちゃぐちゃになりました……泣。
急成長と倒産、再建王坪内氏は確かに優れた経営者だったと思います。国策としての佐世保重工の救済が運の尽きだったのかもしれませんね。
それでも、新たに新来島どっくグループとして復活し、世界の特殊船市場にその名を刻んでおります。
次回は第4弾ですね。どの企業を投稿するか、そもそも書くのかさえ定まってませんが、いましばらくお待ちください。
それでは!
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